鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
       和田塚  と   和田合戦         鎌倉     
       
    
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   和田塚(わだづか)は和田合戦で討ち死にした和田義盛(わだよしもり)以下和田一族を葬った場所と伝えられています。
 江ノ電(江ノ島電鉄)和田塚駅は、和田塚のすぐそばにある駅です。

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<< アプローチ >> 
 
    江ノ電(江ノ島電鉄)和田塚駅から海岸方向に80mほど。
 JR鎌倉駅西口より800mほど。由比ヶ浜大通りの六地蔵交差点より海岸方向へ向かう路地に入り250mほど。
 



   和田塚(わだづか)と和田合戦                
       
和田塚 画像 和田塚 画像 和田塚駅 画像  
和田塚 和田塚前の標識 江ノ電 和田塚駅  
 
     

<<和田塚(わだづか)>>
 和田塚は、和田合戦で和田方の戦死者を葬った塚と伝えられています。
 元は古墳時代の高塚式円墳(たかつかしきえんぷん)で現在鎌倉に残る唯一のものです。近代、多くの墳墓が整理され壊されましたが、五輪塔を並べた和田塚は残りました。塚のまわりは削られ石垣が組まれています。
 和田合戦は、健保元年(1213)5月に、和田義盛(わだよしもり)が幕府の実権を握っていた北条義時(ほうじょうよしとき)を討つため起こした戦いです。
 同族の三浦義村(みうらよしむら)の裏切りにより、和田軍が敗北し、和田一族は滅亡しました。

<<和田義盛(わだよしもり)と三浦義村(みうらよしむら)>>
 和田義盛は、三浦大輔義明(みうらだいすけよしあき)を祖父に持つ三浦党の有力な武将です。父の義宗は杉本を名乗り、義盛は和田を名乗りました。
 祖父の義明は、源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵をしたとき、石橋山の合戦に参じようと兵をあげました。義盛もこれに加わりました。しかし石橋山の合戦に間に合わず、しかたなく三浦に引き返しました。義明は、このおりの畠山重忠との戦いで討ち死にしました。
 義盛は、その後頼朝に仕え武功を重ねました。そして、鎌倉幕府の侍所(さむらいどころ)の別当(べっとう)になりました。全国の御家人を統率する重職です。

 三浦義村も、三浦大輔義明を祖父に持つ武将です。三浦の名を引き継いだ三浦党の棟梁です。
 鎌倉幕府最大勢力の三浦党の本家を継いだわけです。しかし和田義盛のような重職にはなく、また三浦の多くの支族(分家筋)が有力になり独立するきうんをみせるなど、立場や思いは微妙なものになっていたようです。

 三浦大輔義明の討ち死に関しては「材木座を歩く (来迎寺)」のページを参照してください。
  材木座を歩く  のページへ
    
       
和田塚 画像 和田塚 画像 和田塚 画像  
「和田一族戦没地」の碑 後ろに五輪塔が並ぶ 「和田一族の碑」 まわりに五輪塔が並ぶ  左「大震災殉死者供養碑」 右「和田義盛一族の墓」  
 
     

<<和田合戦までの経緯>>
 北条氏は策謀・陰謀を駆使し他の有力御家人を次々と謀殺、排斥していきました。北条時政(ほうじょうときまさ)による畠山父子の謀殺(実際には、時政の子北条義時(ほうじょうよしとき)も大きく関わっていた考えられています)の後、標的になったのが和田一族です。

 畠山父子の謀殺に関しては「「若宮大路と段葛」の「畠山重保の謀殺」の項」、「二俣川合戦の地」のページを参照してください。
  若宮大路と段葛  のページへ
  二俣川合戦の地  のページへ

 北条義時(ほうじょうよしとき)は、二代将軍源頼家(みなもとのよりいえ)を幽閉し、源実朝(みなもとのさねとも)を名目上の将軍とし幕府の実権を握りました。
 信濃の住人泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)は、幕府の実権を握った北条氏を討ち源氏の系流を正すべき、頼家の遺児千寿(せんじゅ)を擁し旗揚げを計画しました。しかし健保元年(1213)2月、計画が露見し、多くの御家人が捕らえられました。計画に加わった御家人の中には、和田義盛の子や甥がいました。
 北条義時は、その好機を逃しませんでした。和田義盛に関係のある御家人や和田一族の者に対して、免罪や重罰を使い分け、また道理に合わないような理由をつけ所領を没収するなどして、さらに義盛の立場や面目をつぶし義盛を挑発し続けました。義盛はその挑発にのり義時を討つ決心したといいます。
 なお、歴史上、泉小次郎親衡の計画があったとする確かな根拠や文献はなく、親衡という人物の実在も疑わしいのです。 にもかかわらず、多くの御家人がそれを元に重罰を受けました。親衡の計画は北条氏の画策であったと考える歴史研究者もいます。

 泉小次郎親衡に関しては「いずみ中央 付近 ( 泉小次郎親衡 伝承地 を訪ねて)」のページを参照してください。
  いずみ中央 付近  のページへ

<<和田合戦>>
 義盛は、計画で、5月3日の早朝、北条打倒の兵を挙げることにしました。その時刻(早朝)なら、北条義時は、小町の義時邸にいるはずです。
 義盛の計画には多くの御家人が呼応し加わる意向を示しました。義盛の軍は大軍になる様相でした。そして、義盛がもっとも信頼していた同族の三浦義村は将軍御所を占拠し小町の義時邸と分断し、将軍実朝を手の内にする予定でした。ところが、その義村が裏切り北条方に寝返りました。義時は、和田方の計画の細部まで知ることになりました。
 5月2日の夕方、合戦は始まりました。和田軍がわずか150騎ほどで、御所と周辺を攻撃し始めたのです。義盛が計画した時刻より早く合戦を始まったのは、北条方の挑発によると考えられます。翌朝には、和田方に多くの武将が合流することになっていたので、義時としては、その前に合戦を始め、和田方に将軍御所を攻めさせ謀反人に仕立て上げ、和田軍を叩いておくという意図だったと推測できます。実際そのようになりました。
 和田軍は、当初、勢いをもって御所近くまで攻め入ったも、徐々に由比ヶ浜方向に後退し始めました。
 翌朝、義盛の計画に呼応した多くの武将が到着しました。しかし、彼らが見たものは、合戦が義盛の計画どおりに進んでいないこと。義盛以下が将軍御所に弓を引き謀反人となったこと。和田軍が後退しつつあるという状況でした。そこで、駆けつけた武将たちの多くは北条方に寝返りました。和田軍に合流したものはわずかでした。
 そうして、その日の夕方、和田軍は由比ヶ浜に近くまで追い詰められ、和田義盛以下、多くの武将が討ち取られ合戦は終わりました。和田一族は滅亡しました。
 討ち死にした和田方の戦死者は、由比ヶ浜近くの無常堂塚(むじょうどうづか)に葬られました。塚は以後和田塚と呼ばれるようになりました。
  

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