鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
       若宮大路  と   段葛         鎌倉     
       
    
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   若宮大路は鶴岡八幡宮の参道です。由比ヶ浜から鶴岡八幡宮へまっすぐにのびています。
 若宮大路には、まわりより一段高くなった参道の部分があり、段葛と呼ばれています。

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<< アプローチ >> 
 
    JR鎌倉駅が最寄り、駅東口広場を横切るとすぐ若宮大路です。

 



   若宮大路(わかみやおおじ)と段葛(だんかずら)                
       
若宮大路 画像 三の鳥居と若宮大路 画像 若宮大路と段葛 画像  
八幡宮から若宮大路を見る  手前は舞殿 三の鳥居から若宮大路方向 三の鳥居前から段葛を見る  
 
     

<<若宮大路(わかみやおおじ)>>
 若宮大路は、由比ヶ浜から鶴岡八幡宮(若宮)へ続く参道です。
 源頼朝(みなもとのよりとも)が、鎌倉に入ったとき、それまであった由比郷若宮(ゆいごうわかみや)(鶴岡八幡宮;頼朝の祖の源頼義(みなもとのよりよし)が京の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を由比郷に勧請した)を詣で、新に京の石清水八幡宮を勧請し大臣山に若宮(鶴岡八幡宮)を建てました。治承4年(1180)
 そのおり、参道の若宮大路も整備されました。
 由比郷若宮は元に場所に残り、元八幡と呼ばれるようになりました。
 鎌倉時代、若宮大路の両側には有力御家人の屋敷があり、また御所も移築され、鎌倉時代の都市の中核になりました。
 また、若宮大路には三つの大鳥居があり、由比ヶ浜に近い方から一の鳥居(浜の大鳥居とも呼ばれる)、二の鳥居、三の鳥居とあり、三の鳥居は鶴岡八幡宮の境内入り口に建っています。
    
       
若宮大路と段葛 画像 若宮大路と段葛 画像 若宮大路と段葛 画像  
段葛 三の鳥居付近 浜方向を望む 段葛 三の鳥居付近 八幡宮方向を望む 段葛 二の鳥居付近 八幡宮方向を望む  
 
     

<<段葛(だんかずら)>>
 若宮大路の通るあたりは、滑川沿いの低い土地で、水をかぶることもあったといいます。そこで頼朝は寿永元年(1182)、妻政子の出産の安産祈願のため、まわりより一段高い参道を整備させました。参道の両側に葛石を積み重ね堤を築いもので段葛と呼ばれています。
 現在は、二の鳥居から三の鳥居まで残っていますが、以前は一の鳥居から続いていました。

 段葛は、軍事的意味も持っていたと推測されます。
 鎌倉幕府にとって、最大の脅威は朝廷を中心とした旧勢力(京が中心)です。都市鎌倉は、特に西方向(京方向)に対する防衛構造を持っていました。幕府の中核は若宮大路の東側に集中しています。若宮大路東側の御所や武家屋敷などは若宮大路側を背にして塀などにし出入り口は小町大路側に設け、西側に対し防衛的な構造になっていました。また、若宮大路の西側は低く東側は高くなっており、西側方向からの攻撃に対し防衛しやすくなっていました。さらに段葛があることによって、大路の両側間の移動はしずらくなります。段葛上の参道にも工夫があります。由比ヶ浜から八幡宮方向に向けて道幅が少しずつ狭くなっているのです。それは浜方向からの攻撃者に対し、遠近法を利用して視覚的に距離感を誤らせるためと言われています。浜方向からの攻撃側の隊列が進行しずらくなるなどの効果もあると考えられます。
  
       
若宮大路 三の鳥居 画像 若宮大路 二の鳥居 画像 若宮大路 一の鳥居 画像  
若宮大路 三の鳥居 若宮大路 二の鳥居 若宮大路 一の鳥居  
 
     

<<一の鳥居 、浜の大鳥居>>
 若宮大路にある鳥居のうち、もっとも由比ヶ浜寄りに建つ一の鳥居は”浜の大鳥居”とも呼ばれます。
 寛文8年(1668)、徳川将軍家綱(いえつな)によって、それまでの木造の鳥居から石造の鳥居に建て替えられたといいます。
 関東大震災のおり、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居は崩壊しましたが、一の鳥居だけは、元の石材を使って修復復元されました。二の鳥居、三の鳥居はコンクリート製のものが新に再建されました。
 現在の一の鳥居が建てられる以前、一の鳥居は何度も移設再建が行われたようですが詳細は不明です。
 現在の一の鳥居の北、200mほどのところ、琵琶小路からえんま橋へ向かう小路との交差点付近で木製の大鳥居の基礎部分が発掘されています。それは、戦国時代、北条氏康によって建立されたものと推測されています。
 また、琵琶小路からえんま橋へ向かう小路は車大路が通っていたと推定されている場所でもあります。車大路の前に浜の大鳥居が建っていたのかもしれません。

<<畠山重保邸阯の碑と宝篋印塔(ほうきょういんとう)>>
 一の鳥居のすぐそばの道脇に、畠山重保邸阯の碑と畠山六郎重保(はたけやまろくろうしげやす)の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っています。
 畠山六郎重保は、鎌倉幕府の有力な御家人、畠山治郎重忠(はたけやまじろうしげただ)の子です。
 鎌倉幕府の実権を握った北条時政(ときまさ)の策謀により、畠山重忠・重保父子は、元久2年(1205)6月22日、殺害されました。

<<畠山六郎重保(はたけやまろくろうしげやす)の死(謀殺)と二俣川の合戦>>
 鎌倉幕府の実権を握った北条氏は、他の有力御家人を次々に謀殺、排斥していきました。そして畠山重忠・重保父子がその標的になりました。
 北条時政(ときまさ)は、畠山重忠に鎌倉へ参るように命じました。重忠は、それ受け、元久2年(1205)6月19日に居館の菅谷館( 埼玉県 嵐山 )を出発し,鎌倉に向けて中の道を進みました。一方で、時政は「畠山重忠が謀反をおこし、大軍を率いて鎌倉に攻め上って来る」と、偽の情報を流しました。

 22日、その日、畠山重忠の子、重保は鎌倉の畠山邸にいました。早朝、寅の刻(午前4時ころ)、畠山邸の前を人馬が行きかい、「謀反人ぞ!」「謀反人は由比の浜におる!」と叫び声があがりました。それは重保を誘い出す罠でした。
 重保は、3騎を従え、由比の浜へ駆けつけると、そこに数十騎の武者が待ち構えていました。「謀反人はどこぞ」と言う重保の声に、その武者たちは「謀反人は貴殿のことよ」と言い放ち斬りかかってきました。重保以下4騎は討ち取られ謀殺されました。

 一方、時政は、鎌倉へ大軍を率いて攻めてくる畠山重忠を迎え撃つため、大軍(数千騎とも数万騎ともいう)を指し向けました。
 その日、畠山重忠は134騎を従え、鎌倉に向け中の道を進んでいました。正午ころ、武蔵の国、二俣川まできたとき、向かいの山に数千騎、数万騎もの大軍が待ち構えているのを見ました。そこで、重忠はその大軍が、自らを討つために発せられたものであること、その日の早朝、子の重保が殺害されたことを知りました。
 そこで、重忠は退くをよしとせず、わずか134騎で数十倍の敵に戦いを挑み、4時間の奮戦のすえ、134騎は全騎討ち死にしました。(二俣川の合戦)

 二俣川の合戦に関しては「二俣川合戦の地」のページを参照してください。
  二俣川合戦の地  のページへ
  
     
若宮大路 畠山重保邸阯の碑 画像 若宮大路 畠山六郎重保の墓 宝篋印塔 画像  
若宮大路 畠山重保邸阯の碑 若宮大路 畠山六郎重保の墓 宝篋印塔  
 
   

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