鎌倉 (旧鎌倉郡) の昔を訪ねて    
    鎌倉   光則寺  と  日朗上人の土牢         
    行時山 光則寺  ( 日蓮宗 )    
    
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 光則寺(こうそくじ)( 日蓮宗 )は、 行時山 光則寺(ぎょうじさんこうそくじ)といいます。
 四季折々の花が彩る境内と、日朗上人の土牢で知られています。

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  鎌倉 長谷 周辺
 
 
 
<< アプローチ >> 
 

(1)      鎌倉駅 西口 (JR) 〜  御成通り  〜  由比ヶ浜大通り  〜  長谷観音前  〜  光則寺   ( 徒歩 およそ 1800m )  
     
(2)      長谷駅 (江ノ島電鉄) 〜  長谷通り・大仏通り  〜  長谷観音前  〜  光則寺    ( 徒歩 およそ 400m )  
     
(3)      <<路線バス利用>> (江ノ島電鉄バス,京浜急行バス)  (JR鎌倉駅発,JR藤沢駅発,他) 
 長谷観音前(バス停下車)   〜  光則寺   ( 徒歩 およそ 200m )
 
 
    
 
    
 




   光則寺(こうそくじ)   行時山 光則寺(ぎょうじさんこうそくじ) ( 日蓮宗 )       鎌倉  

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光則寺 山門 光則寺 本堂 光則寺 本堂とシャクナゲ  
 
     
 
 行時山 光則寺(ぎょうじさんこうそくじ) ( 日蓮宗 )は、開山は日朗(にちろう;日蓮(にちれん)の弟子)、開基は宿屋光則(やどやみつのり)(※「宿屋」は「宿谷」と書かれることもあります)で、文永11年(1274)頃の建立といいます。
 寺号の「光則」は開基の宿屋光則の名に、山号の「行時」は光則の父の名に由来するものです。
 文応元年(1260)7月、日蓮(にちれん;日蓮宗の開祖)は『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』を宿屋光則を通して幕府の実権を握る前執権北条時頼(ほうじょうときより)に提出しました。宿屋光則は幕府の重臣で時頼の側近でした。日蓮の書は国のあるべき姿や政治のあり方等を示したもので、当時の最高権力者に異見するものととらえられ幕府批判ととらえられました。また、諸宗派に対してもそのあり方等を異見し批判し、その信者や門徒から反感を持たれるようになりました。そうして日蓮の法難が始まりました。
 文永8年(1271)、龍口(たつのくち)の法難のおり、日蓮は捕らえられ7月16日瀧口(たつのくち)刑場で斬首されることになりました。しかし、首切り役人の衣知三郎が太刀を振り上げると烈風強雨がおこり江ノ島方向より火の玉が降りてきて太刀を砕き役人は倒れたといいます。他にも不思議なことがいくつも起ったといいます。日蓮は寸前で処刑を免れ佐渡流罪になりました。そのおり、日朗や四条金吾頼基(しじょうきんごよりもと)たち弟子や門弟も捕らえられ、その身柄を宿屋光則が預かることになりました。そして日朗たちは光則の邸宅背後の土牢に幽閉されたといいます。その後、光則は日蓮の教えに触れ深く心よせるようになりました。やがて日蓮に帰依し、文永11年(1274)頃、邸宅地に、日朗を開山に迎え、父の名「行時」を山号に自らの名「光則」を寺号にして一寺を建立したといいます。

<<光則寺まで (長谷観音前 から光則寺 まで )>>
 長谷観音前の交差点から、大仏方向に20m余り進み左手西方向に伸びる路地に入ります。この道が光則寺に至る参道です。参道の入り口右手には「日朗上人土の牢 光則寺」、「日蓮聖人正案国論安国論進献霊跡」などと刻まれた石標が建っています。
 参道に入り20m余りで十字路があります。直進するのですが右手にすこし鈎型に進むようになります。ここの右手にも石標が2基建っています。それぞれに「日蓮聖人正案国論安国論進献霊跡」等、「南無妙法蓮華経」等と刻まれています。なお、左からの道は20m余りで長谷観音(長谷寺)の参道にぶつかります。こちらをたどって来てもよいでしょう。
 道は緩い上り坂になって、その先に光則寺の朱塗りの山門が見えます。
  

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光則寺参道 光則寺参道 光則寺参道  
 
     
 
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門柱から境内へ 光則寺 光則寺 縁起説明板 光則寺 縁起説明板  
 
     
 
<<山門と山門前広場 (光則寺)>>
 山門の手前に門柱が一対あり、それぞれに「行時山」「光則寺」とあります。右手は長谷幼稚園で旧園舎も残されています。前には童子像や素玉なども置かれています。
 門柱の間を通り抜けると、光則寺の境内で、手入れのされた樹木や花が植えられています。
 正面、石段の上に朱塗りの山門があります。山門の軒には「宿谷」の文字が掲げられています。山門の下には賽銭箱のような箱が置かれ、そこに「入場料一人百円」とあります。山門の右側には「宿谷光則屋敷跡」の史跡碑が建ちます。左手には「南無妙法蓮華経 日蓮聖人第七百遠忌報恩」と刻まれた石塔が建ちます。
  

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光則寺 山門 光則寺 山門 光則寺 山門  
 
     

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光則寺 山門 光則寺 山門わき石標 光則寺 「宿谷光則屋敷跡」史跡碑  
 
     
 
<<本堂と本堂前庭 (光則寺)>>
 山門を入ると、正面に「立正安国論御勘由来聖筆碑」の石碑が建ちます。ここに刻まれている文は日蓮直筆の書状を拡大して写したものです。その左にはそれを解説した副碑が並んで建っています。
 石碑の背後に本堂が建ちます。慶安三年(1650)の建立と伝えられています。関東大震災後修復が加えられました。本堂内部は非公開で、日蓮聖人像、日朗上人坐像(市文、元和五年(1619)造立)などが安置されています。
 本堂前の庭はあまり広くなくこじんまりしていますが多くの樹木や草花が植えられていてそれらが四季を彩ります。本堂前には樹齢百数十年という海棠(かいどう)の木(市指定の天然記念物)があります。左手に池が造築されていて水生の植物も見ることができます。
 本堂前の左手の植込みに横幅2.5mほどの宮沢賢治の「雨ニモマケズ〜 」の詩が刻まれた詩碑があります。これは、昭和六十年(1985)、檀家の方が法華経の熱心な信者であった賢治にちなんで寄進されたものです。
 本堂の右側には客殿(庫裏)があります。
  

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「立正安国論御勘由来聖筆碑」の石碑と副碑 宮沢賢治の「雨ニモマケズ〜 」の詩碑 カイドウの木  
 
     

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光則寺 本堂前庭 光則寺 本堂前庭 光則寺 本堂前庭  
 
     
 
<<本堂前から日朗上人の土牢(籠)へ (光則寺)>>
 本堂右手にある客殿の背後へまわり込むと山へ上っていく石段の道があります。道は堂宇背後の山に向かい、左下方に墓地を見下ろすように進みます。
 途中、道沿い右に古い墓地が並んでいるところがあります。その中に開基宿屋光則の墓があります。
 さらに進むと小開けた高台 に出ます。奥の山の崖に日朗上人の土牢があります。

<<日朗上人の土牢 (光則寺)>>
 土牢の入り口は2mほどの高さがあり木の格子がはめられています。内部の奥壁際に石仏・五輪塔が並べ置かれています。
 入り口わき左に「土籠御書(つちろうごしょ)」とよばれる日蓮の書状を記した石碑が建ちます。書状は佐渡流罪が決まった日蓮が投獄された弟子の日朗(1271年9月13日投獄)に宛てて書いたもので、文永八年(1271)十月九日付けで宛先は筑後殿(日朗は筑後坊とも称していた)となっています。
 この土牢は日朗または日朗たちが幽閉されたといわれ「日朗上人の土牢」とよばれていますが、実際のところは定かでありません。日蓮の佐渡流罪の間(1271年10月10日(依智((現)厚木市)を出て佐渡へ向かう) 〜 1274年2月14日(幕府が赦免状を発行))、その間の多くは日朗たちは光則の屋敷のどこかに留め置かれさほど不十なく過ごしていたと思われます。その間光則は日朗たちを通して日蓮の教えに触れ共感していったのだと思われます。
  

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光則寺 客殿 日朗上人の土牢へ続く道 開基宿屋光則の墓 他  
 
     

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日朗上人の土牢 日朗上人の土牢内部 「土籠御書」を記した石碑  
 
     
 
<<本堂前から大橋太郎通貞土籠へ (光則寺)>>
 本堂前から左側を回り込むと後方の墓地へ向かいことができます。墓地の手前左手に山の中へ上っていく石段があります。石段の上り口に石標があり「大橋太郎通貞土籠」と記されています。
 石段を上ると山道になりヤブを進むようになり、程ほど上ったあたり小開けた先の傾斜地に大きめの木があります。その根元に「大橋太郎通貞土籠」といわれる土穴があります。
 大橋太郎通貞は平家の武将で源頼朝に捕らえられ土の牢に十二年入れられてという話があり、それに元づくいい伝えといいます。実際は古墳時代末の横穴墓と思われています。
  
   
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本堂後の墓地からの眺望 「大橋太郎通貞土籠」へ向かう石段  
 
     

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「大橋太郎通貞土籠」へ向かう 大橋太郎通貞土籠 大橋太郎通貞土籠のある木 写真中央  
 
     
 
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