鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
       覚園寺      鎌倉 二階堂       
      
    
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   覚園寺(かくおんじ)は、鎌倉二階堂(にかいどう)、薬師堂ヶ谷(やくしどうがやつ)の奥、木立に囲まれた薬師堂をもつ古刹です。最も鎌倉らしい寺と称されることもあります。数多くの仏像が伝えられています。

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   二階堂  周辺
 
 
 
<< アプローチ (鶴岡八幡宮より)>> 
 

     鶴岡八幡宮 東鳥居 ・  畠山重忠 邸跡  〜   荏柄天神社 ( お宮通り ) ( およそ 700m )  
     荏柄天神社 〜 ( お宮通り ) 〜 大塔宮 ( 鎌倉宮 ) ( およそ 200m )  
     大塔宮 ( 鎌倉宮 )  〜  覚園寺  ( およそ 600m )  
 




   鷲峰山 覚園寺 (しゅぶせん かくおんじ)  鎌倉 二階堂(にかいどう)          
 北条貞時(ほうじょうさだとき)が、智海心慧(ちかいしんえ)を開山として永仁(えいにん)4年(1296)、元寇の難が再び起きないように祈願して、この地にすでにあった大倉薬師堂を改め覚園寺(かくおんじ)を建立しました。開基は北条貞時です。

 覚園寺の前身である大倉薬師堂(おおくらやくしどう)は、建保6年(1218)に、北条義時(ほうじょうよしとき)によって建立されました。
 この年、鎌倉幕府3代将軍源実朝(みなもとのさねとも)は鶴岡八幡宮への参詣を行い、執権の義時もそれに参会しました。そして帰宅した義時の夢に薬師十二神将の戌神(いぬがみ:伐折羅(ばさら)大将)が現れ「今年の神拝は無事であったが、明年の拝賀の日は供奉するな」と告げたといいます。義時は夢のお告げを信じ薬師如来と眷属十二神将を祀る薬師堂を建立したといいます。
     覚園寺 画像
覚園寺 山門  
 
<<鎌倉幕府3代将軍源実朝暗殺事件について>>
 北条義時(ほうじょうよしとき)が大倉薬師堂を建立した翌年の承久元年(1219)正月二十七日、3代将軍源実朝(みなもとのさねとも)は拝賀の式を行うため鶴岡八幡宮に向かいました。執権の義時もこれに従い八幡宮に入りました。そのとき眼前に幻のごとき白犬が現われ義時は気分が悪くなり、自身の御剣を捧げ持つ役を源仲章(みなもとのなかあき)に譲り自邸に帰りました。
 夜になり、神拝の義も終わり、一行が退出し始めたとき、石階のかげで機を窺っていた公暁(くぎょう;2代将軍源頼家(みなもとのよりいえ)の遺児)が剣を抜き寄り、実朝を斬殺しました。義時に代わって御剣を捧げ持つ役を努めていた源仲章も斬殺されました。
 公暁はその場を逃れ、三浦義村(よしむら)の元へ向かいました。公暁は義村を後見に自らが将軍となるつもりでした。
 しかし、義時が無事であることを知った義村は、配下に公暁の殺害を命じました。公暁は義村邸に向かう途中、鶴岡八幡宮背後の山中で義村の配下に討ち取られました。
 義時は眼前に現われた白犬により難を逃れることができました。義時はその白犬を薬師十二神将の戌神の化身であるとし、信仰をあつくしたといいます。

 実際は、義時は、公暁の襲撃を事前に察知し、御剣を捧げ持つ役を源仲章(みなもとのなかあき)に譲り難を逃れたと考えられます。そして源氏の棟梁の血筋を継ぐ実朝、公暁の双方を亡きものにして、鎌倉幕府の実権掌握をより強固なものにしていったと推測されます。  
  

覚園寺 愛染堂 画像 覚園寺 愛染堂 画像 覚園寺 愛染堂 画像  
覚園寺 愛染堂 覚園寺 愛染堂 覚園寺 愛染堂  
 
     

覚園寺 画像 覚園寺 境内 画像 覚園寺 境内 画像  
覚園寺 石造層塔 覚園寺 庭 覚園寺 拝観受付  
 
     
<<山門(さんもん)から愛染堂(あいぜんどう)へ>>
 覚園寺へ向かい薬師堂ヶ谷を奥へ進むと、谷(やつ)沿いの道の正面奥に石段の上に建つ山門が見えてきます。覚園寺の山門です。
 山門を入ると、正面に愛染堂が建ち、手前にはコンパクトながら手入れがされた庭が広がります。
 山門内のすぐ左手に大きな九重石造層塔が建ち眼を引きます。庭の樹木の間には、やや小ぶりですが十三重石造層塔が建ちます。
 愛染堂は、大楽寺(だいらくじ(廃寺):後記)の本堂であったといいます。 堂内には、木造愛染明王座像、鉄造不動明王坐像、阿しゅく如来坐像の三体が並びます。これらは共に大楽寺のものでした。他にもともと覚園寺にあった木造阿弥陀如来坐像、願行上人像など数体が並びます。

<<拝観受付から境内奥へ>>
 覚園寺の境内は谷(やつ)の奥へ続きかなり広いのですが、自由に散策することはできません。愛染堂の左に拝観受付があります。これより先は、拝観料を払い、住職の案内に従ってまわることになります。案内の開始時刻は決まっていますのでそれに合わせて来られるとよいでしょう。およそ1時間弱を要し説明やお話をまじえながら案内していただけます。なおこれより先、写真撮影は禁止となっています。
 (拝観時間は10:00, 11:00, 13:00, 14:00, 15:00 で 日・祝日は 12:00 が加わります。天候等により休止されることがあります。 )

<<薬師堂(やくしどう);本堂>>
 住職の案内に従って拝観受付から境内奥へ入ると、本堂の薬師堂に案内されます。
 薬師堂は茅葺き寄棟造りの仏殿で、元禄の再建とされます。それ以前の室町期の再建のおりは裳階(もこし)付き二重仏殿であったといいます。元禄の地震で倒壊し、古材を使って規模を縮し再建し現在に至ってます。
 室町期の再建は足利尊氏によるといい、天井の梁の銘文にある「尊氏」の部分は足利尊氏の自署であるといいます。
 堂内の正面に、本尊の木造薬師如来坐像(国重文)、その両側に木造月光菩薩(国重文)、日光菩薩(国重文)が座し、堂の両側面に沿っては、木造十二神将立像(国重文)が立ち、並んでいます。
 堂の右奥には、理智光寺(廃寺)の本尊、木造阿弥陀如来坐像(県重文)が安置されています。胎内に小さな仏像が納められていたといい、鞘阿弥陀(さやあみだ)と呼ばれています。また、土紋装飾がある仏像で大変珍しいものであるといいます。

<<旧内海家住宅(県重文)>>
 住職の案内は境内の奥へ向かいます。次は「旧内海家住宅」です。
 「旧内海家住宅」は、宝永3年(1706)に建築されてもので、茅葺き寄棟造り、江戸時代に名主(庄屋?)をつとめた家です。昭和55年に市内の手広から移築復元されたものです。
 覚園寺の境内は、さらに谷(やつ)の奥へ続きますが、これより先には立ち入ることはできません。
 この先、谷(やつ)の奥には、弘法大師があか水を汲んだと伝えられる「棟立ての井」があります。墓地の奥には歴代住職の墓所があり、そこには開山の智海心慧の開山塔(国重文)、二世大燈塔(国重文)並んでいます。
 さらに奥、稜線付近には数多くのやぐらが並ぶ百八やぐらがります。こちらは天園ハイキング道から訪れることができます。
 住職の案内はここ(旧内海家住宅)から手前方向(愛染堂のある方向)に向かいます。

<<十三仏やぐら>>
 旧内海家住宅から手前方向(愛染堂のある方向)に向かいます。次に案内されるのは「十三仏やぐら」です。
 大きなやぐらで高さ2m程、奥行き、幅とも7m程あります。壁にいくつも窪みがあり、石仏(十三仏)が置かれています。

<<黒地蔵、地蔵堂>>
 最後は地蔵堂に案内されます。堂内には、高さ170.5cmの木造地蔵菩薩立像(国重文)が安置されています。鎌倉時代中期ころの運慶の流れを汲む仏師によって造られたといわれています。
「黒地蔵」また「火焼地蔵」とも呼ばれていて、「この地蔵、地獄をまわり罪人の苦しみを助けるため自らを獄卒に代わり火を炊くので、数度彩色をするも一夜に黒くなった」と伝えられています。
  
薬師堂ヶ谷の道 画像 薬師堂ヶ谷の道 画像 薬師堂ヶ谷の道 画像  
薬師堂ヶ谷の道 天園ハイキング道へ分岐 石塔・石仏(庚申塔 他)  
 
     

大楽寺跡への分岐 画像 大楽寺跡 画像 大楽寺跡 画像  
大楽寺跡へ分岐 大楽寺跡 大楽寺跡  
 
     

<<薬師堂ヶ谷の道、覚園寺まで>>
 覚園寺へは鎌倉宮(大塔宮)から北方向へのびる谷(やつ)ぞいの道をたどります。この谷は薬師堂ヶ谷(やくしどうがやつ)と呼ばれています。
 小さなせせらぎに沿った道を300m程進むと、右手に細い道が分岐していてそこに庚申塔が数基並んでいます。この右手の道は百八やぐらから天園のハイキング道へ至ります。かつてはこのあたりに覚園寺の山門があり、そこから覚園寺の境内が始まっていました。
 その分岐点から、直進する道をたどるとわずか10m程で今度は左手に道が分岐します。その分岐した道には「覚園寺 駐車場」と表示があり、そちらをたどると家数軒先に門扉があり広い空き地になります。ここが大楽寺跡です(大楽寺があった場所)。
 覚園寺の駐車場は現在の山門前にもありますので、普段はこちらは利用されていませんが、行事や法要がある時はこちらも使われるようです。
 分岐点に戻り直進する道を行くと、正面の石段の上に覚園寺の山門が見えてきます。

<<大楽寺(だいらくじ)>>
 胡桃山(くるみさん)千秋大楽寺は、公珍を開山とし、当初浄妙寺近くの胡桃ヶ谷(くるみがやつ)にありましたが、永享元年(1429)永安寺(ようあんじ)が焼失したさいに類焼し、その後覚園寺境内地に移転してきたといいます。
 明治初年、廃寺となり覚園寺に統合されました。現在の覚園寺の愛染堂は大楽時の本堂を移築したものといいます。
 現、愛染堂に安置されている木造愛染明王座像、鉄造不動明王坐像、阿しゅく如来坐像の三体はもとは大楽寺のものといいます。
  

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