鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
      本覚寺   (妙厳山 本覚寺)     鎌倉      
      
    
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   妙厳山 本覚寺(みょうごんざん ほんがくじ)といいます。東身延と称され日蓮宗の本山となっています。
 JR鎌倉駅からほど近い、若宮大路を渡った小町大路側にあります。

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  << アプローチ >>    
      (JR鎌倉駅(東口)より)  
 
 JR鎌倉駅東口から、若宮大路をわたり、郵便局鎌倉局とスルガ銀行のある路地に入りその先右側に本覚寺の横門があります。
 JR鎌倉駅東口から、およそ200mほど。

    (付近の略地図は   祇園山ハイキングコース  のページへ)
 



    妙厳山 本覚寺(みょうごんざん ほんがくじ)         (日蓮宗)       
       
本覚寺 画像 本覚寺 画像 本覚寺 画像  
本覚寺 本堂 仁王門 本覚寺 本覚寺 解説板  
 
     
 創建は永享八年(1436)。開山は一乗房日出(にっしゅつ)です。
 かつてより、この地には夷堂(えびすどう)がありました。それは、源頼朝(みなもとのよりとも:(鎌倉幕府の創始、初代将軍))が、幕府の裏鬼門の方角に当たるこの地に鎮守として建てたと伝わります。
 日蓮(にちれん:(日蓮宗の創始、教祖))は、日蓮(にちれん)の法難のおり佐渡流罪になりました(文永8年(1271))。その後赦免され鎌倉に戻ったとき(文永11年(1274))、この地にしばらく滞在したといいます。
 (日蓮の法難、龍口法難に関しては、 ( 龍口寺 日蓮の龍ノ口法難の地   のページへ))

 その後、鎌倉公方(くぼう)の足利持氏(あしかがもちうじ)が、この地に寺を建て、日出(にっしゅつ)に寄進したのが始まりといいます。創建は永享八年(1436)となっています。
 永享八年(1436)、一乗房日出(にっしゅつ)が開山となって創建したといいます。その頃、日蓮宗に改宗したようです。それまでの夷堂は天台宗でした。
 その後、二代目住職には日朝(にっちょう:(日蓮宗の僧:伊豆の国の出身で、幼ないころ三島本覚寺にいた日出に師事を得た)がなりました。のち日朝は身延山九遠寺(くおんじ)の住職になり、身延山九遠寺にあった日蓮の遺骨をこの寺に分骨し、それより寺は「東身延」と称されるようになり、日蓮宗の本山となりました。
 また、日朝が眼病を患ったとき法華経の高徳により治癒したといういい伝えがあり、「日朝さま」ともよばれ眼病治癒の寺とされています。

<<夷堂橋(えびすどうばし)と 本覚寺>>
 本覚寺は若宮大路に背を向け小町大路側に向いて建っています。それはかつて鎌倉幕府が若宮大路側に出入り口を設けることが禁止していたためです。
 夷堂橋は本覚寺の門前で滑川に架かる橋です。小町大路は筋替橋からこの橋を渡り材木座方面へ続きますが、この橋の北側は武家屋敷が並ぶ武士の町、渡った南側は町屋が並ぶ商業の町というように発展していきました。
 本覚寺が建っている地は、かつて夷堂がありました。それは源頼朝(みなもとのよりとも:(鎌倉幕府の創始、初代将軍))が、幕府の裏鬼門の方角に当たるこの地に鎮守として建てたと伝わります。夷堂橋の名前はそれに因ると思われますが他説もあります。
 橋のたもと、本覚寺の門前左側に冠木門(かぶきもん)風の門があります。よく見ると高麗門でした。その脇に「夷堂橋」の石碑が建っていて説明があります。
    
       
本覚寺 画像 本覚寺 画像 本覚寺 画像  
夷堂橋と 本覚寺 石碑「夷堂橋」と 本覚寺の庫裏側門 石碑「夷堂橋」  
 
     

<<仁王門(におうもん)>>
 本覚寺は小町大路側に向いて建っています。その正面に楼門形式の仁王門が建っています。江戸時代の建造といわれますが、明治の初めに移築されたといいます。門の左右に仁王像が置かれていて拝観することができます。
    
       
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仁王門 本覚寺 仁王門 本覚寺 仁王門(境内側) 本覚寺  
 
     

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仁王像(左) 本覚寺仁王門 仁王像(右) 本覚寺仁王門  
 
<<本堂>>
 小町大路から仁王門を入ると正面に本堂が建ちます。総欅造り七間四面、大正八年(1919)の完成です。
 釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)と両脇侍(きょうじ、わきじ)に文殊菩薩坐像・普賢菩薩座像を置きます。南北朝時代の作で、旧夷堂の本尊でした。
    
       
本覚寺 画像 本覚寺 画像 本覚寺 画像  
本覚寺 本堂前 本覚寺 本堂 本覚寺 本堂内  
 
     

<<分骨堂>>
 本堂に向かって右手に日蓮(にちれん:(日蓮宗の創始、教祖))の分骨堂が建ちます。
 二代目住職の日朝(にっちょう:(日蓮宗の僧:伊豆の国の出身で、幼ないころ三島本覚寺にいた日出に師事を得た)は、のち日身延山九遠寺(くおんじ)の住職になり、身延山九遠寺にあった日蓮の遺骨をこの寺に分骨しました。それより寺は「東身延」と称されるようになり、日蓮宗の本山となりました。
    

本覚寺 画像 本覚寺 画像  
日蓮の分骨堂 本覚寺 日蓮の分骨堂 本覚寺  
 
<<鐘楼と梵鐘>>
 本堂に向かって右側手前、日蓮の分骨堂の前方に鐘楼が建ちます。この梵鐘は応永十七年(1410)の銘で、元は上総(かずさ)の木更津の八幡宮のものでありました。日出がその別当寺の泉蔵寺で法論に勝ち、従者の石渡新造左衛門(いしわたしんぞうざえもん)に持ち帰らせたと伝えられています。
 鐘楼の前に「石渡新造左衛門之碑」が建ちます。石碑のうらにその経緯が記されています。
    
       
本覚寺 画像 本覚寺 画像 本覚寺 画像  
鐘楼 本覚寺 梵鐘 本覚寺 「石渡新造左衛門之碑」 本覚寺  
 
     

<<庫裏から墓地へ>>
 本堂に向かって左手手前に庫裏があります。庫裏と本堂は2階の高さの渡り廊下で綱がっています。その渡り廊下をくぐった先は墓地になっています。 墓地の一角には、鎌倉期後期の刀匠岡崎五郎正宗の墓と伝えられている墓があります。本堂背後には歴代住職の墓が並びます。

<<人形塚 と 人形供養>>
 本堂に向かって右側、境内の隅に人形塚があります。
 当寺では毎年十月初旬の日曜日に人形供養が行われます。全国から集められた人形の供養が行われます。当日は多くの人でがあり賑わいます。
    
       
本覚寺 画像 本覚寺 画像 本覚寺 画像  
本覚寺 境内 庫裏方向 本覚寺 庫裏 人形塚 本覚寺  
 
     

<<夷堂(えびすどう) と えびす神>>
 仁王門から境内に入ると、すぐ右手にまだ新しい夷堂が建ちます。この現在の夷堂は昭和五十六年(1981)に再建されたものです。旧夷堂の木造夷神半跏像を祀ります。
 えびすは漢字では「夷」「戎」「恵比寿」「恵美須」などの字があてられます。七福神のなかの一人とされています。七福神の恵比寿さまは、釣り竿を持ち鯛を抱えていて、大漁の神様とされています。さらに海の向こうから富と福をもたらすということからか、海運、商売繁盛などの神様とされています。
 ここの夷神は恵比寿さまとして、鎌倉・江の島七福神の一つに数えられています。
 当寺では、毎年正月には、福娘がお神酒を振る舞う「初えびす」が行われます。
    
       
本覚寺 画像 本覚寺 画像 本覚寺 画像  
(新)夷堂 本覚寺 (新)夷堂 本覚寺 (新)夷堂内部 本覚寺  
 
     

<<横門>>
 本堂前、本堂に向かって右手に日蓮の分骨堂があります。その先に出入り口があり、そこから境内の外と出入りができます。ここに高麗門様式の門があり、境内の横にあるので横門と呼ぶことにします。横門の傍には板碑が並べられていて目を引きます。
 横門を出るとその先100mほどで若宮大路に出ます。JR鎌倉駅までは200mほどです。JR鎌倉駅方面、若宮大路方面へ向かう場合、またその方面から来られる場合はこちらの横門を利用することになります。
    
       
本覚寺 画像 本覚寺 画像 本覚寺 画像  
横門 本覚寺 横門傍板碑 本覚寺 横門傍板碑 本覚寺  
 
     


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