鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
      宝戒寺  と  北条執権邸跡    鎌倉       
   金龍山釈満院円頓宝戒寺 北条執権邸跡 小町邸 萩の咲く寺 紅葉山やぐら    
    
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   金龍山釈満院円頓宝戒寺(きんりゅうざんしゃくまんいんえんどんほうかいじ)は、後醍醐(ごだいご)天皇の命により、建武2年(1335)、北条高時(ほうじょうたかとき;鎌倉幕府14代執権)と一族の菩提を弔うため北条執権邸跡(ほうじょうしっけんていあと)に建立されました。
 境内に萩の咲く寺として知られています。
  

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  << アプローチ >>    
    (JR鎌倉駅(東口)より)  
 
 JR鎌倉駅(東口)から鶴岡八幡宮まで若宮大路または小町通りを経由して徒歩 10 〜 20 分ほど。鶴岡八幡宮前の三ノ鳥居から東方向へ200mほど。

    (付近の略地図は  祇園山ハイキングコース  のページへ)
 



    金龍山釈満院円頓宝戒寺 (きんりゅうざんしゃくまんいんえんどんほうかいじ)        天台宗        
 金龍山釈満院円頓宝戒寺といいます。
 後醍醐(ごだいご)天皇が北条高時(ほうじょうたかとき;鎌倉幕府14代執権)と一族の菩提を弔うため足利尊氏(あしかがたかうじ)に命じ凡宇を建立されました。足利尊氏は、所領を寄進し、開基を後醍醐天皇、開山を五朝(五代)国師 円観恵鎮(えんかんえちん)として、建武2年(1335)、北条執権邸跡(ほうじょうしっけんていあと)に寺院を建立したといいます。
 創建 ー 建武2年(1335)
 開基 ー 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
 開山 ー 五朝(五代)国師 円観恵鎮(えんかんえちん)

 鶴岡八幡宮の三ノ鳥居前の横大路を東方向に200mほど進むと、道は左方向に直角に曲がり金沢街道となります。この角に東方向に向いて宝戒寺山参道の入り口があります。
 参道入り口の両側には、大きな石塔が建っています。左には「天台宗圓頓寳戒寺」、右には「鎌倉 大聖天」とあります。両側を樹木に囲まれた参道を20mほど進むと門扉があります。参道の中ほど右側に「北条執権邸跡」の石碑が建っています。
 門扉を入ると正面に本堂があります。本堂には、本尊、その両脇に天部像が、前にもいくつもの仏像が並び置かれています。本堂の右手奥には大聖観喜天堂(だいしょうかんぎてんどう)が建ち、こちらには木造歓喜天像が安置されています。
 境内は多くの樹木が植えられていて、四季の花が彩ります。特に9月ころは白い萩の花が咲き、萩の咲く寺として知られています。
    
       
宝戒寺 画像 宝戒寺 画像 宝戒寺 画像  
宝戒寺 参道入り口 宝戒寺 参道入り口 宝戒寺 参道より横大路  
 
     

宝戒寺 画像 宝戒寺 画像  
宝戒寺 解説板 宝戒寺 解説板  
 
<<本尊、寺宝、所蔵品など>>
 本尊 ー 木造地蔵菩薩坐像(国重文) 子育経読(こそだてきょうよみ)地蔵と呼ばれています。
        胎内銘より、 貞治四年(1365) 仏師三条法印憲円(ほういんけんえん)の作とされます。
 梵天立像、帝釈天立像  共に南北朝期作 県重文  (本尊の両脇に安置)
 十王像、唐仏地蔵尊像立像、閻魔大王像、宝戒寺開山円観恵鎮慈威和上坐像、二世惟賢(いけん)和尚坐像(応安五年(1372)銘;国重文)、不動明王像、准胝観音(じゅんていかんのん)像、聖徳太子像 など
 本堂の右奥に大聖観喜天堂(だいしょうかんぎてんどう)に、木造歓喜天像(国重文;鎌倉時代の作と思われる、座高152cm、寄木造り、土紋装飾がみられる)、仏涅槃図(県重文) など   
    
       
宝戒寺 画像 宝戒寺 画像 宝戒寺 画像  
宝戒寺 参道 宝戒寺 境内 宝戒寺 境内入り口  
 
     

    北条小町邸 と 北条執権邸跡(ほうじょうしっけんていあと)                 

 鎌倉時代、鎌倉内と周辺に北条氏一族の屋敷がいくつもありました。ここには小町邸がありました。それは北条執権邸ともいわれます。敷地の北側は大倉御所の間近まであり、金沢街道に面し筋替橋(すじかえばし)辺りに北門がありました。東は滑川の対岸の山裾まであり、敷地の広さは現在の宝戒寺の境内の十倍ほどもありました。
 現在は、その跡地に宝戒寺が建ち、その参道に「北条執権邸跡」の石碑が建っています。
 なお、小町邸の西側程近い若宮大路幕府跡の北側にも「北条執権邸」がありました。(執権泰時のとき造営された)

<< 鎌倉幕府執権(しっけん) と 北条得宗(とくそう) について >>
 鎌倉幕府の初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)が亡くなる(正治元年(1199))と、北条時政(ほうじょうときまさ; 頼朝の正室の北条政子の父; 鎌倉幕府初代執権)は、幕府の実権を掌握し、執権を称し、独裁を強めていきました。執権は鎌倉幕府では将軍の補佐を行う役職のことですが、将軍を形式的なものにした、事実上の最高権力者でした。なお、時政は主に名越(なごえ)邸とよばれる屋敷に居住しました。
 その後、元久二年(1205)、時政の子の北条義時(ほうじょうよしとき; 鎌倉幕府2代執権)は、父で執権の時政を追放し、鎌倉幕府の実権を掌握しました。義時も次第に独裁を強めていき、やがて執権を称されるようになりました。
 義時は、執権になったころ、鎌倉内に5ヶ所の邸宅を持っていました。主にそのうちの小町邸に居住しました。
 小町邸は、その後、義時の嫡男の泰時(やすとき; 鎌倉幕府3代執権)に受け継がれました。(貞応3年(1224))
 義時には子が多くいました。泰時は得宗(とくそう)を名乗り嫡流の自分らこそが義時の後継者であり、義時以降の北条氏一族の総領を継いでいくとしました。得宗とは義時の別名(法名)です。得宗は泰時の子に代々引き継がれました。その家系は得宗家といわれました。小町邸は代々の得宗家に受け継がれました。
 また、執権も得宗が引き継ぎましたが、幼少であったり、病気がちであったりなど実務が向かないようなときは、得宗家以外から出されることもありました。

<< 北条得宗家 と 名越(なごえ)流北条氏 の対立 、 三浦氏の滅亡 >>
 北条義時(ほうじょうよしとき; 鎌倉幕府2代執権)の二男の朝時(ともとき)は、祖父の時政(ときまさ; 鎌倉幕府初代執権)の名越邸を受け継ぎました。官職でも時政と同じ遠江守(とおとうみのかみ)に任ぜられました。そのようなことからか、自分らこそが北条氏一族の総領を継ぐべきであると考えたようです。そして、兄で得宗を名乗る泰時(やすとき; 鎌倉幕府3代執権)と対立するようになりました。朝時とその子孫の家系を名越流北条氏といいます。
 また幕府四代将軍藤原頼経(よりつね)は形ばかりの将軍であり、しだいに事実上の権力を求めるようになり、北条氏(得宗家)に対抗心を持つようになったといいます。
 北条得宗家と名越流北条氏の対立は代を越え続き、より深くなっていきました。
 泰時が執権なったころは、北条氏(得宗家)に対抗でき得る力を持つ氏族は三浦氏を残すのみとなっていました。泰時は三浦氏と対立するようになっていきました。泰時と対立する名越流北条氏は三浦氏に近づくようになり、また将軍頼経にも近づくようになりました。それは泰時にとって看過できないものでした。
 泰時は対三浦氏の対戦準備を進めました。その一つとして幕府の移転が行われました。三浦邸は将軍御所の間近、大倉幕府の西御門(にしみかど)にありました。そこで将軍御所を大倉御所から南方向に離れた宇都(津)宮辻子(うつのみやずし)御所に移しました。その後さらに若宮大路御所に移しました。将軍御所が移された若宮大路幕府の北側には新たに北条執権邸が造営され、それにより将軍御所は三浦邸から分断されました。名越流北条氏の名越邸からも同様です。さらに泰時は道路の改修、建造物の改築や配置換えをし自軍が有利になるようにしました。さらに他氏族に対し懐柔、粛清など進めました。三浦氏は孤立化していきました。
 泰時が亡くなる(仁治3年(1242)6月)と、執権は孫の経時(つねとき;鎌倉幕府4代執権)に継がれました。(泰時の子の時氏(ときうじ)は、先に亡くなっていました)
 寛元二年(1244)4月、将軍の代替りが行われました。経時に強いられた4代将軍藤原頼経は将軍職をわずか六才の頼嗣(よりつぐ)に譲り、辞しました。
 寛元三年(1245)4月、名越流北条朝時が亡くなりました。朝時の子の光時(みつとき)が名越流の総領を継ぎました。
 寛元四年(1246)3月、北条経時が病気を理由に執権を退き、弟の時頼(ときより; 鎌倉幕府5代執権)が執権となりました。
 寛元四年(1246)5月、寛元の乱(名越氏の事件)が起きました。時頼が動きました。名越流の総領の光時と弟の時幸、前将軍藤原頼経の側近らが粛清されました。時頼の命を受けた軍勢が光時と時幸の居所を探知し強襲をかけました。名越邸にいた時幸は自刃し、将軍御所にいた光時は命乞いをし所領所職を没収され伊豆に流されました。粛清の理由は「北条光時、時幸は、前将軍の藤原頼経を擁立し陰謀を企てた」というものでした。こうして、時頼は反対勢力、氏族を退け、対する一方の三浦氏はさらに孤立していきました。
 その後、宝治元年(1247)、宝治合戦(ほうじがっせん)で三浦邸は北条方に攻められ、孤立無援の三浦秦村(みうらやすむら)以下一族は、火を放たれた三浦邸を出て法華堂にこもり総勢500余人が自害し、三浦一族は滅亡しました。
 名越流北条氏はその後衰退し、北条氏(得宗家)に下りました。
    
       
宝戒寺 画像 宝戒寺 画像 宝戒寺 画像  
「北条執権邸跡」の碑 「筋替橋」の碑 「若宮大路幕府跡」の碑  
 宝戒寺参道 
この辺に北条執権邸の北門があった 碑の右手(北側)辺りに北条執権邸が造営された  

<< 最後の得宗 北条高時(ほうじょうたかとき) と 鎌倉幕府の滅亡 >>
 元弘3年(1333)、鎌倉幕府は滅亡しました。その時の北条氏得宗は北条高時(ほうじょうたかとき; 鎌倉幕府14代執権)でした。最後の得宗となりました。なお、その時の執権は北条守時(ほうじょうもりとき; 幕府16代執権)でした。
 応長元年(1311)、得宗北条貞時(ほうじょうさだとき; 鎌倉幕府13代執権)が亡くなると、8歳の高時が得宗を継ぎ執権になりました。そのころの幕府は混乱の様相を呈していました。元寇(げんこう; 蒙古(もうこ)軍の襲来; 文永の役(文永11年(1274))、弘安の役(弘安4年(1281)))以降、御家人たちは困窮し弱体化していきました。一方、北条氏得宗家にはより権力が集中し、そして得宗家の直属の配下である直臣たちが権力を独占するようになりました。得宗家の直臣たちを御内方(みうちかた; 御内人(みうちびと)ともいう)といい、その長(管領)を内管領(うちかんれい; 御内方の管領)といいます。御内方は、対立する御家人を粛清したり誅殺したりし、専制体制を強めていきました。そして多くの御家人は北条氏と御内方に対し不審と不満を持つようになりました。幕府の統制は崩れていきました。
 高時は成長し、自身の力のなさを知り絶望したようです。そのころの内管領は長崎高綱(たかつな)・高資(たかすけ)父子で、専権をふるっていました。高時は一度はそれを排除しようとしましたが、失敗し、その後は厭世的になり田楽、闘犬などにうつつを抜かし、贅をつくした酒宴、遊興の日々を送ったといいます。そして病を理由に嘉暦元年(1326)執権を辞して出家しました。しかし、その後も得宗の立場と北条氏総領の立場は変わらず、幕府滅亡の時を向かえることになりました。そして小町邸の最後の主となりました。
 元弘3年(1333)、上野(こうづけ)で新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めの挙兵をすると、各地から多くの武士がそれに加わり、鎌倉を包囲したときは数十万にもなっていたといいます。そして激戦の末、北条方(幕府軍)は敗れ、鎌倉幕府は滅亡しました。北条高時と一族は、小町邸を出て、北条氏の氏寺である東勝寺にて自害し、北条氏得宗家は滅亡しました。
    
<< 後醍醐天皇(ごだいごてんのう;(宝戒寺の開基)) >>
 文保2年(1318)、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が即位しました。そのころ鎌倉幕府は統制は崩れ混乱した状態になっていました。また承久の乱(じょうきゅうのらん;(承久3年(1221)))以降、鎌倉幕府は京に六波羅探題(ろくはらたんだい)を置き、京の動き、公家勢力の動きを監視しました、また朝廷に対して干渉を強めました。朝廷や公家勢力は幕府に対して反感を募らせていました。 
 そうした情勢に、後醍醐天皇は討幕を画策しました。しかし、計画はもれ、天皇側近が処分されました(正中の変(しょうちゅうのへん;(正中元年(1324)))。
 後醍醐天皇は、再び討幕を計りましたが、またも事前にもれ、捕らえられ廃位され隠岐島に流されました(元弘の変(げんこうのへん;(元弘元年(1331)))。その後も討幕に立ち上がった武士たちのなかには各地で討幕の動きを続けるものもいました。
 元弘3年(1333)、後醍醐天皇(その時は天皇位になかった)は隠岐島を脱出して伯耆国船上山にて討幕の挙兵をしました。幕府はそれの討伐のために足利尊氏(あしかがたかうじ;当初は「高氏」としていた)を派遣しました。尊氏は後醍醐天皇方に寝返り六波羅探題を攻め滅ぼしました。関東では、上野(こうづけ)で新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めの挙兵をしました。各地から多くの武士がそれに加わり、鎌倉を包囲したときは数十万にもなっていたといいます。そして激戦の末、鎌倉へ突入した新田軍に北条方(幕府軍)は敗れ、鎌倉幕府は滅亡しました。北条高時以下の一族は、小町邸を出て、北条氏の氏寺である東勝寺にて自害し、北条氏得宗家は滅亡しました。
 鎌倉幕府が滅びると、後醍醐天皇は天皇親政の政治の刷新を計りました。それが建武の新政です。そのとき宝戒寺が創建されました(建武2年(1335))。後醍醐天皇が北条高時(ほうじょうたかとき;鎌倉幕府14代執権)と一族の菩提を弔うため足利尊氏に命じ凡宇を建立されました。尊氏は、所領を寄進し、開基を後醍醐天皇、開山を五朝(五代)国師 円観恵鎮(えんかんえちん)として、北条執権邸跡(ほうじょうしっけんていあと)に寺院を建立したといいます。
 建武の新政はわずか2年で瓦解しました。足利尊氏が後醍醐天皇と対立し、京へ攻め上ってきました。天皇方はそれを一度は撃退するも敗れ京を去りました。尊氏は光明天皇をたて京に朝廷をたて、武家政権を復活しました。後醍醐天皇は吉野に逃れ朝廷をたて、その正統性主張しました。京の朝廷を北朝といい、吉野の朝廷を南朝といいます。それ以降、60余年にわたり南北朝の対立が続きました。    
    
<< 足利尊氏(あしかがたかうじ;(宝戒寺を建立)) >>
 足利尊氏(あしかがたかうじ)は、鎌倉時代末、鎌倉幕府の名門足利家を継ぎ頭首となりました。当初は高氏(たかうじ)といいました。
 元弘3年(1333)、後醍醐天皇(その時は天皇位になかった)は隠岐島を脱出して伯耆国船上山にて討幕の挙兵をしました。幕府はそれの討伐のために尊氏を派遣しました。尊氏は後醍醐天皇方に寝返り六波羅探題を攻め滅ぼしました。関東では、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻め、北条方(幕府軍)は敗れ鎌倉幕府は滅亡しました。
 鎌倉幕府が滅びると、後醍醐天皇は天皇親政の政治の刷新を計りました(建武の新政)。そのおり、後醍醐天皇は北条高時(ほうじょうたかとき;鎌倉幕府14代執権)と一族の菩提を弔うため尊氏に命じ凡宇を建立されました。尊氏は、所領を寄進し、開基を後醍醐天皇、開山を五朝(五代)国師 円観恵鎮(えんかんえちん)として、北条執権邸跡(ほうじょうしっけんていあと)に宝戒寺を建立したといいます(建武2年(1335))。
 尊氏は、討幕の功臣として建武の新政に取り入れられましたが、次第に後醍醐天皇と対立するようになりました。そして幕府滅亡から2年後、尊氏は 京へ攻め上りました。天皇方はそれを一度は撃退するも敗れ京を去りました。尊氏は光明天皇をたて京に朝廷をたて、武家政権を復活しました。建武の新政は瓦解しました。後醍醐天皇は吉野に逃れ朝廷をたて、その正統性を主張しました。京の朝廷を北朝といい、吉野の朝廷を南朝といいます。それ以降、60余年にわたり南北朝の対立が続きました。
 延元3年/暦応元年(1338)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が成立しました。
    
<< 五朝(五代)国師 円観恵鎮(えんかんえちん);(宝戒寺の開山)) >>
 円観恵鎮(えんかんえちん)は、京都法勝寺を拠点に円頓戒(えんどんかい;天台宗の大乗戒)の宣揚伝播に務め、朝廷や公家の篤い信仰を得ました。五代の天皇にも円頓戒を授けたと伝えられ、「五朝(五代)国師(戒師)」とよばれました。関東の道場として当宝戒寺に円頓戒戒壇を建立しました。
 足利尊氏が当寺を建立するにあたり(建武2年(1335))、円観恵鎮を開山にしたといいます。実際の実務を行ったのは、弟子の二世住職の普川(ふせん)国師惟賢(いけん)であったといいます。
    

   紅葉山やぐら                 

宝戒寺 画像 滑川 画像  
宝戒寺橋方向から宝戒寺背後を見る 滑川の清流 宝戒寺橋から見る  
     

 紅葉山やぐらは、昭和10年(1935)に発見されました。宝戒寺の背後、滑川の対岸の山裾にあります。内部からは、五輪塔や納骨、また「海蔵寺十六井」と同じものが出土しています。鎌倉時代の小町邸(北条執権邸)の敷地はこの辺まで含むでいました。その頃の北条得宗家ゆかりの納骨と思われます。
 現在、やぐらのまわりはコンクリートで補強され、入り口にはしっかりした扉が設けられていて、内部を見ることはできません。
 宝戒寺から行くには、宝戒寺参道入り口から、小町大路を海岸方向に40mほど進み、左方向(滑川方向)に折れ狭い路地を進みます。宝戒寺の裏手を境内敷地に沿って進み、滑川に架かる宝戒寺橋を渡るとその先にあります。
    
       
紅葉山やぐら 画像 紅葉山やぐら 画像 紅葉山やぐら 画像  
紅葉山やぐら 紅葉山やぐら 紅葉山やぐら解説  
  
     

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