鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
    極楽寺  と   周辺    (霊鷲山 感応院 極楽寺) 鎌倉     
   忍性 北条重時 忍性塔 清凉寺式釈迦如来立像 月影地蔵 導地蔵   
    
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   極楽寺は霊鷲山 感応院 極楽寺(りょうじゅざん かんのういん ごくらくじ)といいます。
 北条重時(ほうじょうしげとき)が良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)を開山(かいざん)に正元元年(1259)に創建したといいます。
 忍性は、鎌倉幕府から敬われその政策にも影響力を持つほどになりました。また極楽寺を拠点に律宗の布教を行い、また貧しい人々に対する慈善救済や土木建築事業など広く行ったことで知られています。

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  << アプローチ >>    
    (江ノ電 極楽寺駅より)  
  ・   江ノ電極楽寺駅改札口より、桜橋をへて およそ100mほど   

 江ノ電極楽寺駅改札口を出て左方向に線路沿いの坂道を上り極楽寺坂方面に向かい進みます。50mほどで道は2方向に分かれる分岐になります。極楽寺へは左手の桜橋(さくらばし:江ノ電の鉄道線路を跨ぐ橋)を渡ります。右手の下り坂の道は極楽寺坂切通で長谷方面に至ります。左手の桜橋を渡った左先に極楽寺の茅葺きの山門が見えます。 
 



   霊鷲山 感応院 極楽寺 (りょうじゅざん かんのういん ごくらくじ)         (真言律宗)  鎌倉       
       
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極楽寺 山門 極楽寺 門前の解説板 極楽寺 解説板  
 
     
 開基(かいき)は北条重時(ほうじょうしげとき)、開山(かいざん)は良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)で、正元元年(1259)の創建といいます。しかし実際の経緯はよく分かっていません。
 創建より前、ある僧が深沢(現 鎌倉市北西部)の里に阿弥陀如来を本尊とする寺院の建立を志し念仏堂を建てました。それはその後荒廃してしまいました。 それを知った北条重時(ほうじょうしげとき)は、自らの邸宅があった谷(やつ)(現 極楽寺坂口)に再興しようと考えました。そして忍性を招き相談したところ、忍性が念誦(ねんじゅ)したところ感応があったのでそこを再興の地とし極楽寺を建立したといいます。創建は重時の生前の正元元年(1259)とされています。
 重時は念仏(浄土系)信者であったといいます。亡くなったのは弘長元年(1261)11月です。その頃は浄土系宗派の寺院であったと思われます。まだ大寺としての体裁は整えていなかったようです。
 重時の没後、その子長時(ながとき)、業時(なりとき)が父の意志を継ぎ七堂伽藍を備えた大寺院を完成させたといいます。
 文永四年(1267)に忍性が入り、真言律宗に改宗したと考えられます。忍性は真言律宗の僧侶です。
 忍性が入った後、寺域は背後の谷(やつ)や山、浜側の霊山(りょうぜん)山も含むまでになり、堂塔も増え、塔頭、療院などが達ち並ぶ壮大な寺院になったといいます。
 その後、室町期の中頃までは大寺の体裁を保ちましたが、その後は、災害、火災にたびたびあい、応永三十二年(1425)の大火で多くを焼失してしまいました。その後一時はかなり復興されましたが、元亀三年(1572)にも火災にあい一部を残し焼失し、その後は衰退し荒れ果ててしまいました。江戸期になると部分的に修復され現在にいたります。

<<忍性 良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)>>
 忍性は、大和の国に生まれ、西大寺の叡尊(えいぞん)のもとで律宗を学び、慈善救済事業などに尽力したといいます。
 建長四年(1252)、東国に下り常陸国三村寺を拠点にし活動しました。そのころ鎌倉へもたびたび訪れました。弘長元年(1261)に鎌倉に招かれ、翌弘長二年には、北条業時(ほうじょうなりとき)に請われ多宝院に入りそこを活動の拠点としました。文永四年(1267)、極楽寺に迎えられ入り、極楽寺は真言律宗の寺院となりました。
 忍性は極楽寺を拠点に慈善救済活動を広く行いました。極楽寺には施薬院(せやくいん:無料の診療所)、悲田院(ひでいん:孤児や身寄りのない老人を収容する施設)、病人を収容する施設、癩(らい)宿などが多くできました。また周辺にも同様の施設が造られました。長谷の鎌倉能舞台へ向かう道脇に石碑「桑ヶ谷(くわがやつ)療養所跡」がありますが、この施設も忍性が設けたものです。
 忍性は、土木建築事業にも注力し、それは寺院、橋、道路、井戸などの造改築と多域にわたりました。極楽寺坂切通(ごくらくじざかきりどおし)も忍性が開いたとの伝承があります。
 また、極楽寺は和賀江嶋(わかえじま(貞永元年(1232)に築かれた築港で鎌倉の物流を支えた))の管理と津料徴収の権限を持っていた時期もあります。さらに、前浜(由比ヶ浜)の殺生禁断権も持っていました。これは極楽寺が認めた者のみ漁ができるということで実質的に漁業権を掌握していたことになります。 この様に極楽寺は交易や産業などまで多くの権利を掌握していました。これは鎌倉幕府の権力の中枢と深いつながりを持っていたということです。
 このようなことから、忍性と同時期に鎌倉にいた日蓮(にちれん:日蓮宗の教祖)の批判の対象になりました。日蓮は幕府の権力の中枢に近づき多くの権利・権限を得て活躍する忍性を法敵視しました。
 日蓮は法華経至上主義から「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と言い、他宗派を批判しました。「律国賊」とは忍性とその門徒たち律宗勢力に対して批判したものです。日蓮はそのため忍性や他宗派の門徒から反感を持たれ恨まれるようになりました。それが日蓮の法難の一因となりました。
 (日蓮の法難、龍口法難に関しては、 ( 龍口寺 日蓮の龍口法難の地   のページへ))
 忍性は、嘉元元年(1303)七月、八十七才で没しました。遺骨は、極楽寺、大和の竹林寺(ちくりんじ)、額安寺(がくあんじ)に分納されました。嘉暦三年(1328)には後醍醐(ごだいご)天皇より菩薩(ぼさつ)の号を勅許され忍性菩薩(にんしょうぼさつ)と称されるようになりました。

<<北条重時(ほうじょうしげとき)>>
 建久九年(1198)、北条義時(ほうじょうよしとき:鎌倉幕府二代執権)の三男として鎌倉で生まれます。兄の泰時(やすとき:義母の兄弟)は三代執権です。
 六波羅探題(ろくはらたんだい:(京都周辺の治安維持を行う幕府の機関))の役職につき京に上り、のち鎌倉に戻り連署(れんしょ:(執権の補佐役))を努めるなど幕府の重職を歴任しました。鎌倉に戻ってからは極楽寺坂口辺りに邸宅を持ち住みました。極楽寺の創建に尽力しました。
 弘長元年(1261)、64才で亡くなりました。
    
       
極楽寺 画像 極楽寺 画像 極楽寺 画像  
極楽寺 山門より参道 極楽寺 本堂前参道 極楽寺 本堂  
 
     

<<山門 から 境内へ>>
 山門前は狭い広場になっていて、その反対側は切れ落ちた切通になっています。その下には江ノ電の線路が通り、極楽寺駅のホームがあります。
 山門は、茅葺きで歴史を感じる趣きのあるたたずまいです。山門の脇戸をくぐり境内に入ります。山門から参道がまっすぐにのび、その先に本堂が見えます。 参道の両側は桜並木になっています。

<<本堂>>
 山門から真直ぐにのびる参道を進むと本堂前に至ります。
 本堂は、元亀三年(1572)の火災で焼失を免れた講堂を移築したものと伝えられます。
 本堂内には、以下の仏像が安置されています。
 ・不動明王坐像(ふどうみょうおうざぞう)
 ・興正菩薩坐像(こうしょうぼさつざぞう:叡尊(えいぞん)像) ー 嘉元四年(1306)年、西大寺の叡尊(えいぞん)像を模して造られましたが、応永三十二年(1425)の大火で頭部を残し焼失し、それを補造したものです。
 ・忍性菩薩坐像(にんしょうぼさつざぞう) ー 室町時代ころの作と思われます。

<<宝物殿(転法輪殿(てんぽうりんでん))>> 
 本堂の手前右側に宝物殿(転法輪殿)が建ちます。宝物殿には以下の仏像・寺宝等が安置・保管されています。(開館日は季節等、曜日等により定められています。 )
 ・清凉寺式釈迦如来立像(せいりょうじしきしゃかにょらいりつぞう) ー 国重要文化財。極楽寺の本尊、像高157.8cm、忍性の発案により文永五年(1258)に造立されたと思われます。
 ・十大弟子像 ー 国重要文化財。一部の像に文永五年(1258)の銘が残ります。どれもその頃の造立と思われます。釈迦の弟子達を現しています。
 ・釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう) ー 国重要文化財。転法輪印(てんぽうりんいん)の印相(いんぞう:仏像の手の形)を結んでいる像です。転法輪印は釈迦が説法をしたときの手の形といい、説法印(せっぽういん)ともいいます。忍性が建長四年(1252)に仏師善慶に彫造させたとのいい伝えもありますが不詳です。鎌倉時代後期の作と考えられます。
 ・不動明王坐像(ふどうみょうおうざぞう) ー 国重要文化財。元は、石見の国(島根県)の勝健寺の本尊であったといいます。
 ・密教法具 ー 国重要文化財。
 ・忍性塔納置品 ー 国重要文化財。忍性舎利器など。
 ・順忍塔納置品 ー 国重要文化財。舎利器など。

<<本尊 ー 清凉寺式釈迦如来立像(せいりょうじしきしゃかにょらいりつぞう)について>> 
 極楽寺の本尊は、清凉寺式釈迦如来立像で本堂の手前右側に建つ宝物殿(転法輪殿)に安置されています。国重要文化財で、像高157.8cm、忍性の発案により文永五年(1258)に造立されたと思われています。
 清凉寺式釈迦像とは、京都嵯峨の清凉寺(せいりょうじ)の本尊釈迦如来立像を模刻した像で、平安時代末から鎌倉時代ころに多く造られ100体ほど造られたといいます。原像である清凉寺の本尊は、東大寺の僧ちょう然(ちょうねん)が中国の宋へ渡り、寛和元年(985)、台州の開元寺に置かれていた釈迦如来立像を工匠に摸刻させ翌年日本に持ち帰ったものといいます。のち清凉寺に安置されました。
 開元寺に置かれていた釈迦如来立像は、古代インド・コーシャンビーの国王・優填王(うでんおう)が、生前の釈迦の姿を彫らせたとされる釈迦像(優填王思慕像(うでんおうしぼぞう))がのち中国に渡り、それを模刻したものといいます。

<<極楽寺の井>>
 山門からの参道の中程左側に極楽寺の井があります。
 山門前を掘りおこした時に発見された井戸です。鎌倉石を八段積みあげた大きなものです。ここで忍性が粥を施した伝えられます。

<<千服茶臼 製薬鉢>>
 本堂前右手、宝物館前に千服茶臼・製薬鉢があります。
 忍性が療養所など設けたおり使用したものと伝えられています。
    
       
極楽寺 画像 極楽寺 画像 極楽寺 画像  
極楽寺の井 (極楽寺) 極楽寺の井解説板 (極楽寺) 千服茶臼 製薬鉢 (極楽寺)  
 
     
<<奥の院 忍性墓 へ>>
 極楽寺の奥の院・忍性墓は普段は非公開で立ち入ることができません。毎年4月8日に一般公開されます。
 奥の院へ向かうには、一旦境内を出ます。山門前から桜橋まで戻り、そこから極楽寺の境内にそって稲村ヶ崎小学校方面に進みます。境内にそって左折し本堂を左手に見て進みます。道なりに進むとグランドの入り口の門扉に突き当たります。この門扉は普段閉ざされていて立ち入ることはできません。毎年4月8日の一般公開日は開かれますので、ここを通って奥の院・忍性墓へ向かいます。グランドに入るとその左隅にまた門扉があり、そこからの階段の坂道を上ります。左に奥の院をみて進むと、その先右手に忍性墓(国史跡)があります。

<<忍性塔 他>>
 忍性墓(国史跡)に、数基の石塔が建ち並んであります。そのなかで、もっとも大きな五輪塔が忍性塔(にんしょうとう:(忍性の墓))です。国重要文化財、安山岩製、高さ357.2cm、嘉元元年(1303)十一月の銘があります。
 傍らの五輪塔は、国重要文化財で延慶三年(1310)の銘があります。
 傍らの宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、開基の北条重時の墓と伝えられています。鎌倉期末の作と思われます。
 さらに奥には、順忍塔があります。安山岩製、高さ335.1cmの五輪塔で、昭和三十六年(1961)の集中豪雨で倒壊し、そのとき発見された塔内安置品の1つの舎利器が極楽寺第三世善願房順忍のものであることが分かり、順忍の墓であることが分かりました。非公開です。
    
       
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極楽寺本堂裏手を行く 奥の院・忍性墓へ グランド入口 奥の院・忍性墓へ グランド 奥の院・忍性墓へ  
 
     
       
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グランドから 奥の院・忍性墓へ グランドから 奥の院・忍性墓へ グランドより 奥の院・忍性墓を望む  
 
   奥の院(写真左側) 忍性墓(写真中央)  

   導地蔵尊(みちびきじぞう) と 桜橋(さくらばし)                
 江ノ電の極楽寺駅近く、線路を跨ぐ桜橋があります。極楽寺駅や極楽寺坂方面から極楽寺に向かうときはこの橋を渡ることになります。
 橋を渡ったすぐ右に地蔵堂があります。本尊は導地蔵と呼ばれています。人々を見守り、その視野の中では災難を防ぐといわれます。
    
       
桜橋 画像 導地蔵 画像 導地蔵 画像  
桜橋 地蔵堂 導地蔵 導地蔵  
 
     

   月影地蔵 (つきかげじぞう)                 
 桜橋から谷(やつ)の奥に向かい進みます。稲村ヶ崎小学校を過ぎその先200mほどの分岐を左手の道に入り進むと左手に月影地蔵の地蔵堂が現れます。
 古くは、月影ガ谷(つきかげがやつ)にあったものをこの地に移つしたといいます。また、阿仏尼邸にあったともいわれます。そのあたりのことは不詳です。
 今の本尊の木造地蔵菩薩立像は江戸時代の造立といいます。
 お堂前には多くの石仏、石造物が並べ置かれています

 お堂に向かって右側に、裏の山へ向かって狭い階段のある道がのびています。この道は尾根上で尾根道と十字に交差する四辻になります。尾根は鎌倉山と陣鐘山むすぶ尾根です。
 四辻を直進して尾根を越え反対側へ下りると七里ガ浜の住宅地へ出ます。右に折れ尾根道を北方向へたどると鎌倉神社を経て鎌倉山方面へ向かいます。左に折れ尾根道を南方向へたどると江ノ電七里ガ浜駅方面、月影ガ谷から針摩橋方面へ向かうことができます。
    
月影地蔵 画像 月影地蔵 画像  
地蔵堂 月影地蔵 月影地蔵  
 

月影地蔵 画像 月影地蔵 画像 月影地蔵 画像  
月影地蔵 石仏 お堂前左側 (月影地蔵) 石仏 お堂前右側 (月影地蔵)  
 
     


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