鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
       稲村ヶ崎  ・   稲村ヶ崎古戦場         鎌倉     
       
    
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   稲村ヶ崎は、七里ヶ浜から江ノ島・富士山も望める景勝地です。
 稲村ヶ崎から七里ヶ浜にかけての浜は、湘南の人気サーフポイントで、年間を通してサーファーの姿が途絶えません。

 また、鎌倉時代末、新田義貞の鎌倉攻めのおりの戦場となった所で、古戦場としても知られています。新田義貞はここ稲村ヶ崎で、黄金の宝剣を海中に投じ龍神に祈願したところ、潮がにわかに引き、新田軍は干潟を走り抜け鎌倉に突入することができたといいます。

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<< アプローチ >> 
 
    江ノ電(江ノ島電鉄)稲村ヶ崎駅から 400mほど。
 国道134号線沿いですが、駐車場はありません。
 



   稲村ヶ崎(いなむらがさき)                
       
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七里ヶ浜から稲村ヶ崎を見る  稲村ヶ崎 七里ヶ浜側 由比ヶ浜から望む 稲村ヶ崎と霊山山  
 
     

<<稲村ヶ崎(いなむらがさき)と稲村ヶ崎公園>>
 稲村ヶ崎は、由比ヶ浜と七里ヶ浜を分け海に突き出た岬です。
 風光明媚な景勝地で、七里ヶ浜から、江ノ島が望め、好天の日には富士山も見えます。
 七里ヶ浜から稲村ヶ崎にかけての浜は、よい波が入る地形で格好のサーフポイントとして人気があります。
 岬の公園は、”鎌倉海浜公園稲村ヶ崎地区”という公園ですが、通称”稲村ヶ崎公園”と呼ばれています。
 国道から公園内に入ると、右手は開け、七里ヶ浜から江ノ島までよく見渡せます。正面に”ボート遭難の碑”があります。左手は高台になっていて樹木が茂り眺望はありません。左手手前に、”稲村ヶ崎”の碑、”稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地”の碑などが数基並んでいます。
 左手の高台へ上ると、岬の先端上部に出ますが樹木に被われ眺望はよくありません。ここにはあずまやがあり、その傍らに”ローベルト・コッホの碑”が建っています。木々の間から鎌倉方向の海を見ることができます。

<<ボート遭難の碑>>
 明治43年(1910)、七里ヶ浜沖でボートが転覆し、逗子開成中学生12人が亡くなりました。その遭難事故を偲ぶ碑が建てられたもの。

<<ローベルト・コッホの碑>>
 北里柴三郎(きたざとしばさぶろう;(1853 - 1931年);著名な細菌学者)が、師のローベルト・コッホ(著名な細菌学者)が来日したことを記して建てたもの。
 北里柴三郎は、師のコッホが来日したおり、鎌倉の霊山山(りょうぜんさん)を案内しました。コッホはその眺望を大変気に入ったといいます。
 この記念碑は、当初は霊山山の山頂付近にあったものがこの地に移されたものです。
 霊山山山頂付近は当時公園として整備されていました。現在は立ち入りができません。
    
       
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七里ヶ浜から江ノ島方向を望む 稲村ヶ崎公園 七里ヶ浜・江ノ島を望む 稲村ヶ崎公園 ボート遭難の碑  
 
     

       
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稲村ヶ崎公園 稲村ヶ崎の戦いの碑 稲村ヶ崎 稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地”の碑 稲村ヶ崎 ”稲村ヶ崎”の碑  
 
     

<<霊山山(りょうぜんさん)と仏法寺(ぶつぽうじ)跡、霊山寺(りょうぜんじ)跡>>
 稲村ヶ崎から連なる、峰々に霊山山があります。
 このページ上3枚目写真を見てください。(由比ヶ浜から稲村ヶ崎を見る)
 左側に稲村ヶ崎の先端があり、そこから右に峰が連なっているのが分かります。一番高く見える所が霊山山の山頂です。その左にはもう一つ低めのピークがあります。こちらは金山です。

 霊山山の山頂付近には、昔(鎌倉時代ころ)、仏法寺(霊山寺ともいう)という寺院がありました。霊山山と金山の間の谷(やつ)には極楽寺坂の針磨橋付近から道がのびていて、その道に面して仏法寺の大門が建っていました。そこから参道がのびていました。
 霊山山、仏法寺は新田義貞の鎌倉攻めのおり激戦の地になりました。
  
       
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稲村ヶ崎公園 あずまや 稲村ヶ崎公園 ローベルト・コッホの碑 稲村ヶ崎公園 鎌倉側の眺望  
 
     

   新田義貞の鎌倉攻め、稲村ヶ崎の戦い                
<<新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻め>>
 元弘3年(1333)5月8日、新田義貞は、幕府を倒すため上野国新田庄(群馬県太田市)に挙兵しました。その数150騎。その日の夕方には越後の同族2千騎、甲斐・信濃の源氏5千騎が加わり、大部隊となりました。
 義貞の軍は鎌倉道上の道をひた走り、よく9日の夕暮れには20万騎になり、鎌倉を包囲した18日早朝にはさらにその数倍の大軍になっていたといいます。
 18日、義貞は軍を三つに分け、化粧坂、巨福呂坂、極楽寺坂の3方面から総攻撃を行いました。しかし守りの強固な切通(きりどおし)を破ることは出来ず総攻撃は失敗に終わりました。
 そんな中、義貞に悲報が入りました。極楽寺坂方面軍の総大将で同族の大館宗氏(おおだてむなうじ)以下十一騎が討死にしたのです。
 義貞本隊も含め、3つの軍は鎌倉の切通の防御を破ることができなかったのですが、極楽寺方面軍は一時的に北条方(鎌倉方)の防衛線を突破し、一部(宗氏、他)が前浜(由比ヶ浜)まで進むことができたのです。しかし北条方の予備軍が駆けつけ、新田方は敗走し七里ヶ浜へ戻りました。その時宗氏以下十一騎が討死しました。
 北条方の防衛線は再び固められました。
 義貞は中央軍(化粧坂方面軍)の指揮を弟の脇屋義助(わきやよしすけ)に任せ、極楽寺坂方面軍の指揮を自らがとるため本陣を移しました。
 21日の夜半、新田義貞は稲村ヶ崎の崖に立ち龍神に祈願し黄金の剣を海中に投じました。「・・・、龍神、臣が忠義に感じ、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に開かし給え」
 22日未明、奇跡が起こりました。
 稲村ヶ崎は潮が干き崖下に二十余町もの干潟が現れたのです。横矢を射ようと構えていた北条方の軍船は沖へ流され横矢は届きようもありません。
 義貞は全軍に突撃を下知しました。六万余騎、一斉に稲村ヶ崎の遠干潟を駆け抜け真一文字に鎌倉へ乱入していきました。
 そして北条氏総領の北条高時(ほうじょうたかとき;鎌倉幕府14代執権)以下一族は自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。

<<”稲村ヶ崎の戦い”(龍神伝説の奇跡など)を検証する>>
 新田義貞の鎌倉攻めにおいて、最も注目される場面は”稲村ヶ崎の戦い”でしょう。
 そのなかで、さらに不可思議さ等で注目され、多くの人が疑問を感じる部分が、「新田軍が鎌倉を包囲しながら守りの強固な切通を破れず攻めあぐねていたところ、新田義貞が稲村ヶ崎の崖に立ち、海中に黄金の剣を投じ龍神に祈願すると、にわかに潮が引き、それによって新田軍は一斉に稲村ヶ崎の遠干潟を駆け抜け鎌倉へ突入することができ勝利することができた」といういい伝え(龍神伝説)でしょう。
 そのような不思議なことが実際に起こったのでしょうか。
 推測ですが、そのようなことは起こり得るし、また起こったと考えます。しかし、この伝説には幾分のかたよりや誇張があると思われます。(不思議な現象を誇張しおもしろおかしくする意図かと思いますが、)
 実際には、極楽寺坂方面の新田軍は攻めあぐねてはいませんでした。北条方の防衛線の弱点や特徴を分析し計画的に攻撃を仕掛けていたのです。そして、激戦の末、着実の北条方の防衛線を弱体化し撃破していったのです。その結果、鎌倉への突入が可能になったのです。

<<”稲村ヶ崎の戦い”における北条方の極楽寺方面の防衛線について>>
 まず、当時の北条方(鎌倉方)の防衛線について推定してみます。
 北条方の極楽寺坂切通しの防衛線は、現在の成就院の山門前から少し極楽寺側に寄ったあたりと思われます。
 成就院の境内あたりに防衛部隊を展開し、極楽寺側に逆茂木(さかもぎ)、柵を組み、七里が浜方向からの攻撃部隊の進行を抑えます。攻める側は狭い切通しの道に身動きがとれなくなり、そこを両側上部の平場から、矢を射かけ、岩や丸太を落とし討ち取るのです。非常に強固な防衛構造を持っていて、大軍をしても容易に破ることはできないと思われます。
 当時の切通しの道やそのまわりの様子が残っていないので、検証は難しくなってしまいました。現在の極楽寺坂切通は、当時の道から大幅に掘り下げられ、幅を広げ、舗装され、自動車が通れるようになっています。発掘や調査は難しくなってしまいました。
 北条方のの稲村ヶ崎路の防衛線は、霊山山の海側の崖沿いの路です。前浜(由比ヶ浜)寄りに防衛部隊が展開し逆茂木、柵を組み、七里が浜方向から岸の崖沿いの狭い道を攻めてくる攻撃部隊の頭を抑えます。その身動きができなくなった隊列に対し、霊山山の崖上から矢を射かけ、岩や丸太を落とし、海上からは軍船が迫り横矢を射かけ討ち取るのです。非常に強固な防衛構造を持っていて、大軍をしても容易に破ることはできないと思われます。ただ干潮時は、軍船が崖沿いの路から幾分離れますので幾分防衛が弱体化すると思われます。
 こちらも検証を難しくなってしまいました。関東大震災のおり、霊山山の海側の山腹が崩落し、さらに昭和になり、稲村ヶ崎から由比ヶ浜にかけての崖下が埋め立てられ平地が造成されました。当時の地形も路も残っていないのです。発掘や調査は難しくなってしまいました。
 現在の稲村ヶ崎の鎌倉側の地形を見ると岬の先端近くまで平地があるので、通過が困難は地点は岬の先端部分付近のように思えてしまいますが、新田義貞の鎌倉攻めで鎌倉への突入を困難にしていた場所は違います。その地点は岬の先端部分から500m以上由比ヶ浜側に寄った霊山山の崖下の部分です。
 次に、霊山山、仏法寺です。
 霊山山は北条方にとって極楽寺方面の防衛の要所です。山頂付近から極楽寺坂切通を監視、攻撃できます。稲村ヶ崎路に対しても監視、攻撃できます。またここを守る部隊への連絡、補給の道が前浜(由比ヶ浜)側にあったはずです。
 新田軍(攻撃方)が、この地点(霊山山、仏法寺)をおさえたらどうなるでしょう。
 極楽寺坂切通においては、新田方は霊山山側から切通の反対側にいる防衛部隊(北条方)へ矢を射かけ、北条方は切通の両横上部からの攻撃ができなくなります。さらに霊山山側から北条方に対し矢を射かけ、攻撃部隊の進軍を支援することが出きるようになります。
 稲村ヶ崎路は、北条方の霊山山からの攻撃はなくなり、沖の北条方の軍船に対しては今度は新田方が山頂付近から矢を射かけられるので、軍船(北条方)は崖沿いに近づけなくなります。さらに新田方から浜の北条方に対しても矢を射かけ攻撃部隊の進軍を支援できるようになります。
 また、新田方が霊山山から浜へかけ下り北条方の守備部隊の背後をつくこともできるでしょう。
 つまり、霊山山が落ちた時点で北条方の防衛は著しく弱体化し、ほとんど機能を失ってしまうのです。しかも霊山山山頂付近にある仏法寺の山門・参道は七里ヶ浜方向(新田軍のいる方向)に向いています。極楽寺方面の北条方の防衛線は横に長くなっているうえ、霊山山・仏法寺という大きな弱点を持っていたのです。

<<稲村ヶ崎の戦いの推移(推測を含む)>>
 以上をふまえ、稲村ヶ崎の戦いの推移をまとめてみます。
 稲村ヶ崎の戦いは、18日の新田軍の鎌倉総攻撃から22日の鎌倉突入と鎌倉幕府の滅亡までの5日間にわたって行われました。なお日時その他、文献により違いもあり、異なる説もあります。

 18日、早朝、鎌倉を取り囲んだ新田方は化粧坂方面、巨福呂坂方面、極楽寺坂方面の3軍が総攻撃を開始しました。しかし強固な切通の守りを破ることはできず攻撃は失敗に終わりました。
 極楽寺方面軍(総大将 大館宗氏(おおだてむなうじ))の攻防は翌朝まで続きました。
 19日、早朝、前浜の合戦がおきました。
 極楽寺方面の攻防は前日から続いており、北条方(鎌倉方、大仏貞直(おさらぎさだなお)が率いる)の防衛線が疲弊してきたのに乗じ、新田方の宗氏直率の三百騎ほどが防衛線を突破し前浜(由比ヶ浜)に進行することに成功しました。突破した場所は、極楽寺坂付近、切通か霊山山のどこかだと思われます。同時に稲村ヶ崎路から未明の干潮時の干潟を駆け抜け前浜に進行することが出来た者(天野左衛門尉経顕(あまのさえもんのじょうつねあき)、大塚五郎次郎員成(おおつかごろうじろうかずなり)、他)もありました。
 しかし、攻撃側(新田方)も疲弊していたため、後続が続きませんでした。そこへ北条方の予備軍(本間党)が駆けつけ、新田方、宗氏軍以下は敗れ七里ヶ浜まで敗走しました。
 北条方は、七里ヶ浜まで追撃し、その後引き返し仏法寺に入り大門を閉ざし緩んだ防衛線を固め直しました。
 この前浜の合戦で宗氏以下十一騎が討死にしました。その場所は前浜から七里ヶ浜にかけてのどこかででしょう。(稲瀬川あたりで討たれとする説もあります。) 新田方の極楽寺方面軍は指揮官を失いました。
 その日のうちに極楽寺方面の戦況と宗氏以下十一騎が討死したことは義貞に知れされたことでしょう。
 20日、義貞は中央軍(化粧坂方面軍)の指揮を弟の脇屋義助(わきやよしすけ)に任せ、極楽寺坂方面軍の指揮を自らがとるため稲村ヶ崎近くに本陣を移しました。(21日とする説が有力) 
 この間、義貞は腰越で八王子宮(現 小動神社)に立ち寄り先勝祈願をし、正福寺に本陣を置き、その後稲村ヶ崎近くに本陣を移すというように時間をかけて移動したようです。おそく次の激戦に備え、兵を休めること、戦況、地形、北条方の防衛線の状況など情報を集め分析し次の作戦の準備をすることなどのためでしょう。そして義貞は北条方の防衛線の霊山山・仏法寺という弱点に気づき攻撃目標を定めたのでしょう。
 21日、新田方極楽寺方面軍は霊山山・仏法寺に対し猛攻をしかけました。北条方は大門を閉ざし射矢を無数に放ち応戦しました。新田方はまわりの峯や間道を這い上り攻め大門を撃破しました。攻防は夜になっても続き、そして夜闇に三木俊連 (みきとしつら) らが霊山山山頂を踏み越え戦況が決定しました。そうして新田方が霊山山・仏法寺の攻略に成功しました。
 霊山山・仏法寺の攻略成功の知らせは稲村ヶ崎に居る義貞にすぐに伝えられました。義貞はそれを待っていました。鎌倉への突入が可能になったのです。
 夜半(午後11時ころ)義貞は後方に控えている主力軍を集め稲村ヶ崎の崖に立ち鎌倉への突入を下知しました。決行は翌日未明、干潮時の干潟を突進し夜明けとともに鎌倉へ突入する。それの下知とともに士気鼓舞のため、黄金の宝剣を海中に投ずる例のデモンストレーションを行いました。
 22日未明、六万余騎、一斉に稲村ヶ崎の干潟を駆け抜け、鎌倉へ突入していきました。
 突入した新田軍は、化粧坂、巨福呂坂を守る北条方の部隊を背後から攻撃し、北条方の防衛線は崩壊しました。数十万の新田軍が鎌倉に乱入し、北条氏総領の北条高時(ほうじょうたかとき;鎌倉幕府14代執権)と一族は東勝寺にて自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。
  

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